行合の空――新しい風を迎える余白

九月に入り、まだ厳しい暑さが残る一方で、朝夕の風や空の高さに、ふと秋の気配を感じるようになりました。
夏と秋、二つの季節が出会う頃の空を、昔の人は「行合の空(ゆきあいのそら)」と呼びました。
『古今和歌集』には、凡河内躬恒の歌があります。
夏と秋と 行きかふ空の かよひぢは
かたへ涼しき 風や吹くらむ
夏と秋とが行き交う空の通り道では、片側にはもう涼しい風が吹いているのだろうか――。
なんとも美しい季節の捉え方です。
夏がある日突然終わり、翌日から秋になるわけではありません。
残暑の中に涼しい風が混じり、夏の雲の向こうに秋の気配が現れる。
二つの季節がしばらく同じ空にあり、やがて少しずつ次の季節へと移っていきます。
この「行合」という感覚は、季節だけではなく、人や社会にも通じるように思います。

日本では高齢化が進み、総務省の統計によれば、65歳以上の人口は3,600万人を超え、総人口のおよそ3割を占めています。
人生を長く歩み、経験を重ねた人の知識や技術は、社会にとって大きな財産です。
しかし、長く活躍することと、いつまでも同じ役割を担い続けることとは、少し違うのではないでしょうか。
人には、それぞれの時にふさわしい役割があります。
自ら先頭に立つ時があれば、人を育てる時もある。
そして、自分ですべてを決めるのではなく、人に任せ、求められた時に経験や知恵を渡すことが大切になる時もあります。
そこにも一つの「引き際の美学」があるように思います。
引くというと、どこか寂しい響きがあります。しかし、引くことは消えることではありません。
一歩退くことで、初めて生まれる場所があります。
そこに新しい考えが入り、これまでになかった試みが始まる。時には失敗もしながら、少しずつ新しいものが生まれていきます。

考えてみれば、茶もまた、長い歴史の中で姿を変えてきました。
中国・唐代には茶葉を固めた団茶が盛んとなり、宋代には茶を粉末にして湯を注ぐ点茶が隆盛しました。
それが日本へ伝わり、やがて抹茶の文化として独自の発展を遂げます。
一方、中国では明代以降、茶葉そのものに湯を注いで味わう淹茶の文化が広がります。
その新しい茶の楽しみ方も日本へ伝わり、江戸時代には売茶翁をはじめとする人々によって煎茶文化が花開いていきました。
興味深いのは、新しい茶の文化が生まれたからといって、それまでの文化が消えてしまったわけではないことです。
古いものと新しいものが出会い、あるものは形を変え、あるものはそのまま残り、それぞれの美しさを今日まで伝えています。
茶の歴史そのものが「行合」であったともいえるでしょう。
新しいものが生まれることは、古いものを否定することではありません。
抹茶が今に伝わり、煎茶もまた独自の文化として育ってきたように、日本文化には、一つのものを新しいものに置き換えるのではなく、それぞれの良さを認めながら共に残していく懐の深さがあります。
新しいものに出会うことで、かえって古いものの価値に気づくこともあります。
反対に、長く受け継がれてきたものがあるからこそ、新しいものの意味が見えてくることもあります。
大切なのは、新旧のどちらかを選ぶことではなく、異なるものが出会った時に、そこから何を生み出せるかではないでしょうか。

煎茶道でも、茶を淹れる時には「間」を大切にします。
何もしないように見える時間にも意味があり、そのわずかな間が、次の所作を美しくします。
人も社会も、常に前へ進み続けることだけが変化ではありません。
立ち止まること。
少し距離を置いて眺めること。
これまでとは違う考えを受け入れてみること。
そこに、新しいものが入ってくる余白が生まれます。
夏は、秋が来ることを拒みません。
秋もまた、夏を追い出すようにやって来るわけではありません。
二つの季節が一つの空で行き合うからこそ、私たちは夏の名残を惜しみながら、秋の訪れを喜ぶことができます。
変わることと、残すこと。
去ることと、迎えること。
古いものと、新しいもの。
その間には、どちらとも決めきれない美しい時間があります。
日本人は昔から、その曖昧な境目に目を向け、「行合の空」という言葉を残しました。
何かを終わらせなければ、新しいものが始まらないのではなく、少し余白をつくることで、新しい風が入ってくる。
行合の空を見上げながら、そんなことを思う季節です。


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